いつそれが起こるか分からない緊迫と恐怖は暴力なのか
「いつ来るか分からないのはいつも来ているのと一緒」
友人の言葉です。
斧で叩き潰したドアの割れ目から狂気の男が顔をつき出す有名なシーン…
ジャック・ニコルソン主演の「シャイニング」は有名なホラーだそうですね。
私は全編通して見たことはありませんが、YouTubeで件のシーンを見ました。
扉を挟んですぐそこにいる、狂気の男。追い込まれた密室で、みるみる叩き割られるドア。
逃げ場のない迫り来る恐怖を、短い時間でも感じることが出来ました。
この時、友人の言葉は真理だと改めて思ったのです。恐怖を感じる対象との距離が扉一枚か、隣町か、国境の向こうか。またはこの世とあの世かもしれない。
だけどどれだけ物理的に離れていても、その人のトラウマの深さによって感じる恐怖の大きさは増幅します。時間も空間も一瞬で越えて。
「私は今、斧で脳天を割られた訳ではなく無事なんだ」
あの緊迫した状況でそのように“今、ここ”を考えられる人は少ないでしょう。たとえ真理だとしても。
「私は今、斧で脳天を割られるかもしれない」
そのように感じる今、ここの恐怖もまた真実なのです。
カウンセリングの先生に「でもしょっちゅう殴られてたとかじゃないんです、実際に殴られたのは数回だけです。いつキレるんかな、キレたら止まらない、どうなるか分からないってだけで」と言った時、先生はすかさずこう返してくれました。
「いつ殴られるか分からないっていうのは、いつも殴られてるとはまた違う恐怖ですよ」
ホラー映画は正にその恐怖を味わう訳ですね。
確かにそこに恐怖があることは分かっているが、それがいつ襲ってくるか分からないからホラーが成立するのでしょう。
頻繁に暴力が繰り返されるバイオレンスとはまた別種の恐怖です。
どんどん壊れていく扉越しのジャックに戦慄する女は、瞬間で私の記憶にスイッチしました。
小学生高学年の頃でしょうか。
薄いベニヤ板で出来た扉を、オレンジ色した持ち手の切れ味鈍いハサミを鈍器に、無言でうずくまった兄が繰返し叩き割っている姿は静かな恐怖でした。
ダイヤル式電話のベル発信器を拳で殴り潰し、あのけたたましい呼び出し音をおとなしく黙らせた事もあります。
文化祭の出し物について10人近い同級生に連絡して説明する係を私が受け持った時の話しです。
何度も繰り返す呼び出し音に業を煮やしたのでしょう。
私はひたすら殴られる発信器と苛立ちに満ちた顔の兄を仰ぎ見ながら、それでもなお受話器の向こうの同級生に説明を続けなくてはいけません。そしてまだこの後に電話をかけなくてはいけない相手が何人もいるのです。
これらの記憶は私が今まで体験した恐怖(天災や事故的なもの、人為的なものも全て含めて)の中でも身体への危険性は低い部類に入ります。
拳や刃物などを自身に向けられる直接的な脅迫は恐ろしいものですが、それとも違います。
「めったに殴られたことないし」
あるいは
「自分は殴られたことないから」
確かにそれは事実だとしても、その事が身近な誰かがまたは何かが殴られたり破壊される現場に身を置く恐怖を過少評価する理由にはなりません。
身体で感じる殴られる痛みと、心で感じる殴られるかもしれない痛みは比較して優劣を争うものではなく、個々に尊重されケアされるものです。
そしてどちらの傷も、言葉によるコミュニケーションに加えて皮膚を通した心地よいふれあいによって癒されていくものだと思います。
“愛は皮膚から生まれる”と読んだ事がありますが、トラウマからの回復に重要な役割をふれあいはもたらしてくれるのでしょう。
緊迫の密室から勇気をもって吹雪の街へ逃げ出したあなたには、愛を求める権利があります。
自分の痛みを外へ開く事はその為の第一歩であり、自身を語る行為はみっともないと沈黙しないこと。
とるに足りない痛みなどないのです。痛いものは痛い。ありふれた痛みへ共感できる感受性は暴力の萌芽にいち早く気づき、取り返しのつかない事件を未然に防ぐ知恵を社会に授けます。
あなたが「助けて」と声を上げることは、同じような境遇に取り残された人々を社会が発見するきっかけとなるのですから。
「怖かったね、もう大丈夫だよ」
私たちは真実への共感と安心できるふれあいによって誰かと繋がり、それによって他者の魂を奪うことなく自分の魂を生きていけるのです。
優しい誰かの腕の中、全身で安らぎを感じる永遠が私たちに訪れますように。
再見!!