“触るな” ─── 夢日記
はじめは、得体の知れない“何か”……“闇”や“もや”、“空間の歪み”が私に覆い被さってくるパターンだった。
真夜中の田んぼの畦道を一人で歩いている時に突然その“何か”が襲ってくる。息ができない。窒息しそうなおぞましさと恐ろしさ、怒り。
「………触るな!!!」
叫んで目を醒ます。
似たような夢を繰り返し何度も見た。
現実の日常は流れる。
そして悪夢の“何か”もゆっくりと時間をかけながら、しだいに外国人や日本人の中年男性へと具体化していった。
こちらに目を剥いて近づいてくる中年の男。
最後はいつも同じ。
「触るなぁ!!!」
同時期に汚いトイレの夢もよく見ていた。これもみな恐ろしい夢。
それは公衆トイレである時もあれば、私が育った家のトイレであったりしたけど、どれもみな汚く、ひたすら“何か”が恐ろしいことには変わりなかった。
家のトイレの夢では無理矢理扉を開けようとしてくる家族と、頑なに開けまいと中にいる私の攻防戦が多かった。
私はズボンを半分下ろした状態でガタガタ揺れる扉のノブを固くこちらに引き寄せている。
「開けんといてー‼」と半泣きで誰もここに入らないように懇願している。
扉を開けようと必死の母は焦っていて、向こうの部屋にいる父の様子しか見ていない。
母が兄のパターンもあったけど、苛立ちに満ちた兄は何故か母のカーディガンを着ていた。
ある日の夢、扉の向こうにいるのは父だった。
扉を固く閉じる私、苛立つ父。
モザイクの窓が割られる。
タバコが投げ入れられると同時に父の腕が割れた穴から伸びてくる。
恐ろしくなる。そしてまた叫ぶ。
「触るな……!!!!」
“便所”という言葉の別の意味を知ったのはそのずっと後のことだ。
この夢を見ていた頃は父はまだ存命中で、偶然か何か、父がうちに来てくれる朝に見ることが多かった。
父はとっくに優しい人になっていた。自責の念を誰よりも感じ、家族に奉仕し続けながら一人きりで背負って一人きりで倒れた。とっくに成人した子どもたちが自身で負うべき責任まで一身に引き受けて、消えた。
私は父に親子以上のスキンシップをされた記憶は全くない。酒を飲んだ時は頬ずりしてきたりキスしてきたり、まぁよくある酔っぱらい程度の過剰なふれあいはあったけど、性的な接触の記憶は全くない。
それでも夢の“何か”達は知らない男や祖父、父と姿を変え、様々な様相をもって私を苦しめていった。
下半身が裸体の祖父の太ももの上に知らない少女が乗せられ激しく揺さぶられている。恍惚としている祖父の顔。
少女は私に助けを求めて手を伸ばしてくる。
「もうやめときよ」祖父を嗜めるも呆気なくふりはらわれ、何もできない私は無力感に襲われ目を醒ます。
この頃見る夢では、もう叫んではいなかった。
就寝中に知らない男に覆い被さられ、最初は抵抗していたが次第に諦めていくような、自分の無力を悟る目覚めが多かったと思う。
場所はスーパーで、普通に立っている状態で、私の尻にその場所を当ててくる相手が父の夢の時もそうだった。嫌だけどどうしようもない、力なく諦めていく感じ。
しばらくこのテイストの夢は続いた。
そして父は亡くなった。
父が亡くなってから数年たった頃。
寝ている私の足元に父が立っている。怒りに満ちた顔で指示を出すように勇ましく右を差した途端、部屋は真っ暗になって私は恐ろしくなりハッと目を醒ます。
私の叫び声で母が駆けつけてくれた。
同い年のいとこに赤ちゃんが生まれた知らせを母が受け取ったと同時に叫んだらしい。
「もおーまこちゃんが産んだかと思ったよ」
うなされた私を和ませる為の冗談に私は小さく笑って、何も言えず静かに泣いた。
もう一度はっきりしておくと、夢の中の父と現実の父の関連性はない。
ただ、泥酔していた父の手がまだ子どもだった私の腕に偶然触れた時、文字通り身の毛がよだった記憶は鮮明に覚えている。
私が児童虐待の本を読み、性的虐待の体験談を目にする機会が多かったことも考慮に入れなければならない。
記憶が自分の都合で簡単に刷りかわってしまうことも実体験として知っている。
それでも書かずにいられないのは、未だにこのパターンの夢が私を苦しめるからだ。そして今朝もその夢の中の手は私の手を撫で回していた。
解離性障害(私は解離性転換性障害)を患った人の中には、こういう微妙なラインの気持ち悪さで苦しんでいる人がいるかもしれないと思ったことも大きい。
はっきりした根拠も記憶もないのに、うなされる夢の後味悪さに憔悴している人は多分いるだろうと。
悪夢は疲れるよね………
多くの夢はコントロールできないが、現実の今は選択可能だ。
過去から自由になりたければ、今に目を向けるしかない。
吐き出せばその“何か”はもう私の外にある。
放たれたければ放つしかない。
私は明るい方へ行きたい。