精神障害の診断名増えすぎだろうとムカムカしてきた時に改めて考えてみること。
“「オルトレキシア?」また怪しい
免罪符が出てきたなぁ。”
新しい診断名が次々量産される事に眉をひそめる人も多いかと思う。
「何でもかんでも病気のせいで片付けて甘えんじゃねえよ、んなもん昔からあったじゃねえか」
または
「レッテルを貼りカテゴライズすることで、かえって本質の理解から離れるのでは」
需要があるから供給がある。
でもそれは社会に上手く適応できない“弱い人間”のずるい言い訳の為だけだと言いきれるかなぁ?
精神疾患の診断名が量産される理由について考えてみた。
ひとつに実際に新しい病気や障害が増えていること。
そして「問題のある人間の問題行動」として本人の意思次第で正せると長年片付けられてきた事象に、改めてスポットライトが当たること。
そもそも病気の概念事態が曖昧なのだから病名が量産されるわけだけれど、病気や障害といったものは「休養や栄養、治療やサポート、社会復帰の為のリハビリ等を必要とする」考え方では共通していると思う。
「ほっときゃ治る」考え方はその反証として成立する訳で、メインストリームはあくまでも前者だろう。
そしてその「休養や栄養、治療やサポート、社会復帰の為のリハビリ等」は病気とされる個人の為に終わらず、受け入れる側の社会としても無視するより有益な何かがあるから供給するのだと思う。
実際に上手く機能しているのかは別として、持ちつ持たれつという事だ。
私たちがもしも幼少期に「人は違って当たり前」という真理を本当の意味で肯定し日常的に体感できる環境で育っていたなら、これほど多くの診断名は必要なかったと容易に想像できる。
“障害だからできないんだ”
“障害のせいで人と違うんだ”
条件がないと「できないこと・私と違うこと」を許して貰えない生き辛さは、「みな同じように・だいたい同じ位のペースで・だいたい同じ位の量を・だいたい同じ条件で・だいたいできて当たり前」という前提そのものに疑問を持つきっかけになる。
そもそも生まれてきた時点で個人の身体や性質気質全てにばらつきがあるのだから、集団生活を全うする為の同じ条件という考え方自体が破綻しているのだ。
今日、方法に個人が嵌まるよう努力する社会から、個人に合わせて方法を変えるやり方が生まれてきているのは、ユニバーサルデザインのようにできる人間・できない人間双方にとって有益な落としどころをさぐる必然的な流れだと思う。
部分的・短期的に見て一時的に生産性は落ちても、全体的・長期的スパンで見た時には雇用率アップや就業期間の長期化に繋がるのではないかなぁ…どうなんだろう?
私とあなたは違うし、それでいい。
このように捉えられる人が一人また一人増える事で、診断名の需要と供給は減少していくのだと思う。
それは“できないことが異常”とする異常から脱しつつあるひとつの指標になるんじゃないかな。
教育の話に翻ってしまうと収集がつかなくなるので今日はここらへんで。
書き言葉ってどうしても賢く見られたい欲(コンプレックス)が炸裂してカッコつけたくなるから、意識して話し言葉交えるとほどよく中和されますね。
それでもなお気取ってしまうはご愛嬌。大目に見て下さい、バカだなぁ~と、ね。ふふ~ん♪♪♪
今回の内容に関連ある項目を少しだけリンク貼っときます↓
医療化(wikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E7%99%82%E5%8C%96
医療化とは何か(ヘルスリテラシー 健康を決める力)
http://www.healthliteracy.jp/senmon/post_13.html
No.3534 2014年7月24日(木)放送
精神科病床が住居に? 長期入院は減らせるか
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3534/1.html
参考文献
みんなちょっと昔の本ばかりだけど、しかもラインナップかなり片寄ってますけど、医療化について考えてみたい人に↓↓↓
↑昔途中迄読んで挫折したんだけど、また読んでみたい本。
病院ってそもそも、な所から翻って考えてみたい翻り好きな人に。
↑冒頭の序文が面白かったと記憶しています。アメリカの精神科医が精神疾患の診断名を受ける経緯が、怖かったけど十分あり得るんだろうなぁと。精神科の薬についても色々書いてました。
↑著者は取材のためアルコール依存症を装って精神病院(日本の)に偽装入院します。イタリアへの取材の他、日本の新しい取り組みについても紹介しています。